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偶然の一致ではないのか?
誰もが最初にそう疑うだろう。
確かに、そのような傾向は否定できない。
つまり、通常再生時の音(おん)の羅列が、逆再生時に偶然に意味のある言葉として聞こえるケースである。
できるだけ分かりやすく説明するために日本語で説明しよう。
例えば、中島みゆきの『悪女』の歌詞には、
「男と」という言葉が現れる。
※再生できない場合
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これを逆再生すると、やはり、
【男と】と聞こえる。
※再生できない場合
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実は、「男と」をローマ字表記すると、「OTOKOTO」となる。これは、前から読んでも後ろから読んでも音的に同じである。
そのため、逆再生で「男と」と聞こえるのは不思議ではない。また、誰が発音しても、逆再生時に同じように聞こえる。
つまり、これらはリバース・スピーチとしては除外すべき例、又は表音依存度が高すぎる例と言える。
だが、同じ『悪女』の歌詞には、「女のつけぬコロンを買って深夜の茶店の鏡で」という個所もある。この中で、
「深夜の」
を逆再生すると
【そない無理し】
と聞こえ、
「女のつけぬ」
を逆再生すると
【胸膨らむの】
と聞こえる。
これらに関しては、「男と」の場合とは異なり、同じ歌詞を他の人に歌ってもらい、録音後、逆再生してみても、
必ずしも「そない無理し」や「胸膨らむの」が現れる訳ではないことが分かる。
音(おん)としては、近いものが現れるとしても、中島みゆきのように、聞き取れるフレーズを再現するのは至難の業である。
歌ったり、喋ったりする人物の発音、アクセント、抑揚など、特別な条件が揃って初めて生成されるのである。
このように、リバース・スピーチは通常再生時の表音に依存しやすいものの、その程度はまちまちで、
表音依存度が低くなるほどリバース・スピーチの特異性が際立ってくる。
つまり、表音依存度の高いリバース・スピーチは、「男と」のように、偶然として一笑に付されても致し方ないと言えるが、
表音依存度の低いリバース・スピーチは、偶然を超越して、特別な条件が揃った時に初めて生成される特異性を備えている。
実際のところ、同じ人物が同じ内容を繰り返し喋っても、常に同じリバース・スピーチが現れる訳ではなく、
その時に込められた感情によって、表音とは乖離したさまざまなリバース・スピーチが現れる。
誰もが想像できるように、偶然によってのみリバース・スピーチが生まれるのだとしたら、
それらは、表で語られる内容とは無関係に、音(おん)が一致した言葉のみが逆再生時にランダムに
現れるはずである。ところが、現実にはそうならないことが多々あるのだ。
「そない無理し」や「胸膨らむの」といった反転メッセージは、あまりにも短いフレーズのため、のちに紹介していく例と比較すると、
クオリティーとしては決して高いものとは言えないが、それでも、奇しくも曲の主人公の心理状態を反映しているようである。
このように偶然では片づけられない現象として現れるのがリバース・スピーチであり、その判定に際して、
筆者は表音依存型であるか、自立型(表音乖離型)であるかどうかを判断材料としている。
つまり、表音依存度が低く、自立的なリバース・スピーチになるほど、
その発言者が意図する感情が無意識のうちにリバース・スピーチとして生成されてしまうのである。
優秀な歌手ほど、歌詞の内容に深く感情移入を行う。その結果、その歌詞の内容を
反映・補完するようなリバース・スピーチが現れるのである。*
リバース・スピーチは逆再生した歌声だけから聞こえるものではなく、通常の会話やスピーチからも幅広く現れる。
いや、本来は、歌声ではなく、会話やスピーチの逆再生から得られるもののみを指す。
そして、研究を続けたオーツ氏は人のスピーチに関して次のような結論を下した。
- 人のスピーチは、少なくとも二つの独立した、しかし補完的な機能とモードを持つ。
- スピーチの二つのモードである「通常再生=表のモード」と「逆再生=裏のモード」は、互いに補いあって一つとなり、依存しあっている。
- 裏のモードは表のモードの前に生成される。
*音楽から聞こえるリバース・スピーチは必ずしもその歌手の本音とは一致しない。
なぜなら、架空の主人公への感情移入によって別人になりきろうとする場合が多々見られるからである。
あくまでも、表で歌われる内容を反映・補完する内容になりやすいと言えるだけかもしれない。
これは、セリフを読んでドラマを演じる俳優の場合にも言える。
描いた情景にどっぷりと浸かって架空の人物や、モデルとなるような別人になりきる場合、
自分の感情というよりも、その人物の感情を自分に降ろし、受け入れている可能性が考えられるのだ。
そのため、歌やドラマにおけるリバース・スピーチにおいては、発言者の口癖、信条、思想などが反映するとは限らない。
レッドツェッペリンの「天国への階段」においては、そんな特別な意識において、「何か」がロバート・プラントに介入した可能性があるのかもしれない。
⇒ RSは本音の表出である!? (次項)
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